①ダ・ヴィンチ・コードの容認できない歴史誤認 ②『ユダの福音書』とグノーシス主義について ③『タリズマン』とヘルメス思想について
①【ダ・ヴィンチ・コードの容認できない歴史誤認】 イエス・キリストにまつわる、「真実」の歴史を明かすという、米国の新人作家、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』(2003)が、全世界で約6000万部以上を売り上げ、驚異的ベストセラーになっているといいます。 私も2004年の秋に読み、2005年になってもう一度読みましたが、その批評を一言で言えば、本書は人間のあくことのない知的好奇心や探究心、そして普遍的人間愛や家族愛への、著者のオマージュであると読みました。 しかし本書は学問的に見れば、歴史上での女性原理の役割の再評価という視点は全く賛成ですが、肝心のイエスの真実の歴史なる部分は、私には全く「的はずれ」の一語に尽きます。
実際、本小説には有意義な指摘とともに、「トンデモ本」的要素が混在していて、良くも悪くも中途半端な作品、題材が混乱しているという意味では、消化不良的な作品だと言えます。
そしてその理由は順を追って述べますが、第一には、少なくともこの小説で扱われているような類の話―イエスの血脈を守る地上最古の秘密結社の一つだとされる、「シオン修道会」だとか、「聖杯伝説とは、王家の血の伝説」であり、具体的にはイエスとその妻マグダラのマリアの娘サラの血脈の象徴であるとか、シオン修道会の歴代総長には、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ニュートンらがいた―などは、至極まじめにヨーロッパの歴史を勉強している者には、全くナンセンスな内容であって、専門家による長年にわたる研究に基づく、西洋精神史の歴史的実情と定説からは、大きくかけ離れていると感じました。
またこの種の「トンデモ本」的・擬似歴史的なイエス仮説は、それ自体も特別に真新しいものではなく、モーリス・シャトラン著『キリスト教と聖書の謀略』(1990)等を始めとして、すでに10年以上も前から知られているネタでもあります。そして何よりも、本小説には許容できない致命的な歴史誤認が多いと、私には思われますので、以下にまずそれらを何点か挙げてみます。
①「魔女狩りがおこなわれた300年の間に教会が焚刑に処した女性の数は、実に500万人に達する」(上巻175頁)とありますが、今日の多くの歴史家の一致した見解では、5万~30万人の犠牲者が亡くなったとされています。しかもその全ての方々が女性だったわけではなく、焚刑により亡くなったわけでもなく、さらに言えば、全ての裁判事例にキリスト教会が関ったというわけでもありません。
②「1940年代から50年代にかけて、パレスティナの砂漠にあるクムラン付近の洞窟で、死海文書が発見された。そして、1945年にはナグ・ハマディでコプト語文書が見つかっている。これらは聖杯の真実の物語を記すとともに、イエスの伝道を実に人間くさく描いている」(上巻331頁)とあります。しかし専門家の間では全く常識であるように、死海文書には直接間接を問わず、イエス・キリストとその弟子たちや、初期キリスト教への言及は皆無と判断されています。また、主に中世以降に流布する聖杯伝説と、4世紀半ば頃のグノーシス派の写本であるエジプトのナグ・ハマディ文書との間には、時代的にも思想的にも、直接のつながりは皆無でしょう。因みに聖杯伝説の起源に関連しては、それをイラン系のオセット人の「ナルト叙事詩」に求めるという神話学説も、近年出ているようですが。
③「サングリアル(王家の血)文書には何万ページにも及ぶ資料が含まれているという。・・・・・・コンスタンティヌス以前の時代に、イエスをまぎれもなく人間の指導者かつ預言者として崇拝した信者たちが書いた、手の加えられていない数千ページの文書だ。また、ヴァチカンでさえその実在の可能性を認めた、名高いQ資料も含まれているという説もある。それは教義が記された資料だが、恐らくイエス直筆のものだろうと言われている」とあります(下巻31頁)。そして、元来新約聖書のマルコ、マタイ、ルカ福音書は、内容や表現の類似から共観福音書と呼ばれますが、一方でマルコは、主にイエスの行動を記すのに対して、マタイとルカはそれぞれの三分の一ぐらいの分量の、両者にほとんど共通するイエスの語録を含みます。そこでこの三福音書の異同を説明するために、現在ではほぼ定説化しているのが、「二重資料説」ですが、これによれば最古のマルコ福音書からマタイとルカが取り入れた資料が、三者に共通するマルコ資料Mで、三福音書の第一資料です。そしてマルコとともに、マタイとルカが共通して使用した語録資料がQ資料と呼ばれ、Qとはドイツ語の「Quelle」(資料)の略で、これが第二資料です。
そしてイエスの行動を伝えるM資料とは異なり、Q資料はイエスの語録福音書であり、今日Q資料そのものの現物は文書としては残っていませんが、イエスの死後にまず口伝され、後に文書化されたものと考えられます。従ってQにイエスの肉声が反映されているのは確かですが、ブラウンの言うように、それを「イエス直筆のもの」とするのは、いささか正確ではないと思います。なお、本小説では全く触れられていませんが、イエスの語録を伝える資料には、先のナグ・ハマディ文書にある、グノーシス派の『トマスによる福音書』が重要です。これは114のイエスの語録集ですが、講談社学術文庫から、荒井献氏による詳細な注釈つきで訳が出ているので、参照をお勧めします。
④「古代には、男性は精神的に未完成であり、聖なる女性との交接(聖婚)によってはじめて完全な存在になると信じられていた。女性との肉体的結合は、男性が精神的に成熟し、ついには霊知(グノーシス)―神の知恵―を得るための唯一の手段だった」(下巻105頁)とあります。確かに、古代では聖婚儀礼は尊重されていましたが、こうしたタントリズム的な宗教の型は、古代のグノーシス主義を含めて、殊にヨーロッパの中世やルネサンス期の神秘主義思想にいたっては、ほとんど実例がないというのが、西洋精神史の実情だと言えます。そしてヨーロッパの愛の哲学を語る際には、何といっても、プラトンの『饗宴』が大きな原典の一つですので、最後に改めて後述します。
以上私が見た『ダ・ヴィンチ・コード』の許容できない疑問点を何点か指摘しました。そこで次に、本小説の内容面に関連して、もう少し踏み込んだ思想史的注解をしてみますと、なるほどブラウンの言うように、「共通点のなさそうな図案とイデオロギーとの秘められたつながりを長年研究してきた者からすれば、世界とは歴史と事件が複雑にからみ合った蜘蛛の巣にほかならない。・・・・・・結びつきは目に見えないかもしれないが、表層のすぐ下にかならずひそんでいる」(上巻23頁)という歴史直観には、私も全面的に賛成します。しかし問題は、実際にどのような解釈と方法論とによって、人類の心的な歴史の複雑な糸を解きほぐすかにあります。
例えば本小説でラングドン教授は、「古代人は、世界がふたつの側面を持つと考えていました。・・・・・・男女のバランスがとれていれば、世界は調和が保たれる。バランスが崩れれば、混沌が訪れる」(上巻51頁)と述べますが、これは宗教史でいう、「聖婚=ヒエロス・ガモス」と呼ばれる観念を念頭に置いた記述で、元来農耕の起源と女性との深いつながりに基づく観念です。そして宗教学者ミルチア・エリアーデも、世界史の黎明期に、「女性は植物栽培において決定的役割を果したので、耕作地の所有者になる。それが女性の社会的地位を高め、さらに例えば、夫が妻の家に住まねばならない妻方居住制のような、特色ある制度を創ることになる」(『世界宗教史1』72頁)と指摘するように、今日多くの学者は、人類史上での農耕の開始は女性によるものと基本的には考えています。
そして一説では、「古代オリエントの農耕社会は、死と再生の儀礼によって一つに結合されていた」と言われ、「その源流をたどってどこまでもさかのぼると、美しい豊穣の女神に出会う。いわゆる大地母神である。・・・・・・大地母神の名は、地方によって変化するが、その基本的性格は変わらない」といいますが(山形孝夫『聖書の起源』104頁)、この美しい豊穣の女神たちには必ず、年ごとに再生する、植物霊のシンボルとしての配偶男性神がついていました。そして、古代オリエントの最も重要な宗教儀礼である「聖婚」は、この神々の死と再生の儀礼に基づいていましたが、それを示す最古の証拠の一つは、シュメール文明のウルク遺跡から出土した、紀元前3000年頃の「ウルクの大杯」です。これは雪花石膏(アラバスター)製の高さ1メートル程の壺で、上段に女神イナンナと、その「深淵の息子」ドゥムジである祭司王との婚姻が表されています。そしてこのように、子供であると同時に愛人、夫でもあるような男性の植物神と結びついて、豊穣の大女神が崇拝されるという古代宗教の型は、メソポタミア、エジプト、シリア、パレスティナ、アナトリア、また東欧から中部ヨーロッパにかけての地域では、ある時期までは中心的・普遍的崇拝だったと考えられます。
しかし一方、やがて紀元前2000年紀以降になると、こうした古代の女性的・大地的豊穣信仰の体系に対して、次第に父権的・天上的信仰体系が力を持ってきます。そしてその理由の一端は、当時のユーラシアや中近東世界での気候変動や、あるいはそれに伴う対外戦争などから、天候神や、戦争神の性格を併せ持った男性の主神が、新たに台頭したからだとも考えられます。そしてこれには、バビロニアのマルドゥク神、フェニキアのバアル神、イスラエルのヤーウェ神、ギリシアのゼウス神などが最も代表的ですが、特に他の三神とは異なり、聖婚の観念がほとんど残存しないヤーウェ神を奉じるユダヤ教では、古代の西アジアの母性的宗教を徹底して排除したために、その祭司集団からは女性を排除しました。そして、旧約聖書で20回近く繰り返されるという、「乳と蜜の流れる」聖地の観念には、母の形象がなお残っているという興味ぶかい指摘はあるものの、やはり、ユダヤ教が古代世界での父権的一神教の頂点に位置することは確かでしょう。
さて中近東に対して、西方のヨーロッパに目を向ければ、ギリシアの前ヘラス文明期は、一般には「ペラスゴイ時代」とも呼ばれ、聖婚儀礼を伴ったかは不明ですが、「カベイロイ」という、一種の密儀を行ったとされます。そして古くはヘロドトスが述べ、また、スイスの古代学者J・J・バッハオーフェンの古典、『母権制』(1861)などでは、ペラスゴイは自然宗教や密儀宗教などと強く結びついた概念となっていますが、さらに同書によれば、やがて古代のアジア的アフロディテ的乱婚制から、ギリシア的デメテル的母権制へ、そしてアポロン的父権制への転換が起ります。そして、これをギリシアで最もよく体現したという都市国家アテネでは、古典文化が最盛期を迎え、哲学文化が花開きますが、こうした中、ギリシアの女性たちは、「ヘタイラ」と呼ばれる職業女性たちを別とすれば、公の場に出ることは一般的にははばかられ、家に閉じこもる生活を余儀なくされたと言われます。そしてこうした当時の女性の抑圧された社会的立場は、幾つかの文学作品にも反映されているようです。
例えば、民主政治家ペリクレスの言葉、「称賛されるにせよ非難されるにせよ、男たちの間で評判になることが最も少ない女性には、大きな名誉がついてまわるものだ」(トゥキュディデス『戦史』)や、悲劇の台詞、「外の事は男の関心事、女に口出しさせてはならない。女は内に留まり、邪魔立てしないことだ」(アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』)などです。また一般に古典古代のギリシア社会では、女性は平均的に14、5歳で父親の決めた30歳前後の男性と結婚し、男性が45歳なのに対して、平均して36歳で亡くなったとされます。また当時は人口増を抑える目的からも、嬰児遺棄が普通に行われていたと考えられますが、その際には、男児よりも女児の場合が多かったことも推測されています。そしてこの点は、喜劇作家アリストファネス(前445~385頃)の『女だけの祭り』や、後のプラトンの後期対話篇『テアイテトス』の記述にも反映しています。つまり前者では、ある女性が女児を生んだために、男児を生んだ家内奴隷の女と子供を取り替えられたと読めるくだりがあり、また後者では、産褥の床にある妻が、夫により新生児(おそらくは女児)を取り上げられて、嘆きの余り狂態を演じるという光景が描かれているのです(長田年弘『神々と英雄と女性たち』145~150頁)。
このように一般に古代ギリシアの女性たちは、社会生活における主要な権利を男性に侵害されていました。しかし、こうした中にあっても、人類史上に不滅の記憶の刻印を残した、傑出した女性たちが何人か知られています。すなわちバッハオーフェンによれば、古代人は、「ピュタゴラス的叡知の娘」テアノ、ソクラテスにエロース論の最高の奥義を授けた巫女ディオティマ、プラトンが「10番目のムーサ(詩神)」と呼んだ叙情詩人サッポーを、ひとまとめにして捉えていたと言います。そして、「時代も民族も異なるこれら三人の女性が類似しているという根拠が、一体どこにあるのだろうか。この問題は、いまだ答えられたことはなかった。だが私は答えよう、母性的地下的宗教の密儀以外のどこにその根拠を求めうるのかと。ペラスゴイ世界の女性の宗教的使命は、古代の最も輝けるこの三人の女性の姿に、最も豊かにかつ最も高貴に展開されている。サッポーは、オルペウ秘教の偉大な中心地(レスボス島)の出身である。ディオティマは、古くからの文化と、サモトラケのデメテルへの奉仕で特に有名な、アルカディアのマンティネイアの出身である。サッポーは、アイオリス人であり、ディオティマはペラスゴイ人である。つまりこの二人の女性は、宗教や生活において、ヘラス以前の文化を忠実に残していた民族の出身なのだ。偉大な賢者たちの一人(ソクラテス)は、ヘラス世界の発展に取り残され、もっぱら昔ながらの生活を営んでいるとされた民族の無名の女性(ディオティマ)に、アッティカ種族の輝ける文化には主張できないような、宗教の成熟を見出している」(バッハオーフェン『母権制序説』吉原達也訳187頁)。
ところでこの内ディオティマは、プラトンの『饗宴』に登場する女性ですが、ペロポネソス半島中央部アルカディアのマンティネイア市出身とされ、プラトンの創作か、実在の人物かは不明ですが、その名「ディオティマ」は、「ゼウスからの名誉を持つ女性」の意で、主神ゼウスは神々の中で万物を操る最高の知者ですから、彼女もまた稀有な知者であることが寓意されているそうです。またテアノは、ピュタゴラス、すなわち紀元2世紀末から3世紀初頭に書かれた、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によれば、ピロソポス(愛知者=哲学者)を最初に名乗ったピュタゴラスの弟子で、妻でもあり、ダモとテラウゲスの母でしたが、夫の死後にはピュタゴラス教団を引き継ぎ、布教にも努めたとされます。またサッポーは、前7~6世紀頃に活躍した叙情詩人で、生地のレスボス島は、音楽家でオルペウス秘教の創始者とされる、神話上のオルペウスの首と琴が流れつき、葬られた場所だという伝説もあるそうです。
なおオルペウス秘教とは、来世論的信仰を中心教義とする密儀的救済宗教であり、その教えによれば、肉体(ソーマ)は魂の墓場(セーマ)であり、魂が死後に受ける善悪の応報により、魂が浄化(カタルシス)されて、最後には輪廻転生から解脱し、再び永遠の死後の至福(エピクテシス)を得て、神に帰一することを最終目的にしたといいます。そしてピュタゴラス派、エンペドクレス、プラトンなどに強い影響を与えたその主要教義は、ピンダロス『オリュンピア祝捷歌集』第二歌、エンペドクレス『カタルモイ』、ウェルギリウス『アエネイス』、そして、プラトンの『パイドロス』(248c以下)、『ゴルギアス』(522e以下)、『パイドン』(107d-115a)、『国家』(614a)、また、南イタリアの古代墳墓から出土した金属製の護符(タリズマン)などからも知られています。
さて、古代世界最大の哲学者と言われるプラトンは、また、西洋神秘主義思想の巨大なる祖の一人でもあります。実際彼は、「・・・・・・人間の魂は不死なるものであって、時には生涯を終えたり―これが普通「死」と呼ばれている―時には再び生まれてきたりするけれども、しかし、滅びてしまうことは決してない。このゆえに人は、できるだけ神意にかなった生を送らなければならない」(『メノン』81B)と述べ、人間霊魂(プシューケー)は死後には肉体を去り、輪廻するものだと考えました。そして、プラトンの「イデア論」が最初に明確に表明されるのは、中期対話篇の『饗宴』ですが、この中で、「エロース(愛)の道の最高の奥義と啓示」と言われる(美)のイデアは、一種神秘的な存在と聞え、日常性を超えるものを神秘的と呼ぶのであれば、事実、イデアはそう呼ばれてよいでしょう(藤沢令夫)。そして同書に登場する巫女ディオティマは、「エロースとは、善きものの永久の所有へ向けられた」運動であり、人間を始めとする死すべき者らが、「美しいものの中に子を生むこと」により、自分に代わる生命や、作品を後に残すという仕方で、不死に与ろうとする欲求であるということをソクラテスにまず教え、さらに言います。
「これまで話した恋の道(=子や作品を残すこと)は、ソクラテス、恐らくあなたでもその秘儀を授かることが出来るでしょう。しかし最高の奥義と啓示については・・・・・・果してあなたがその秘儀を授かることが出来るかどうか、私には分かりません」。すなわちエロースの最高の奥義と啓示とは、「恋の道をここまで教導され、さまざまの美を、順を追って正しく観て来た者は、今や恋の道の究極に至ろうとする時、忽然として、ある驚嘆すべき本性の『美』を観取する」ことである(29節)。
つまり、『饗宴』でソクラテスと対話する巫女ディオティマの言葉によれば、人間の愛のはたらきとは、「肉体の上でも心霊の上でも、美しいものの中に(自身の子を)生産することです」が、しかし肉体的生殖の本能的欲求としての愛も、心霊的欲求としての、自己の作品の創出としての愛も、ともに人間の不死への憧憬の、最も初歩の段階にあるものにすぎないのに対して、愛の最高段階としての本性の美、真実在たる美そのもの、美のイデアの観取とは、これらよりも高い精神的生殖により実現する、精神的不死だということです。
結局プラトンのエロース論では、愛の奥義に至る正しい道とは、「地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発して、ついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局、美の本質を認識するまでになることを意味する」のです。
要するに、プラトンの愛知的信念は、美そのものを「人間の肉や色や、その他幾多の死滅すべき無価値なる物などに汚されぬままに、観ることができたならば」、その人こそ、「神の友となることを許される」のであり、およそ「人間が不死となれるものならば、彼にこそ、その特権が賦与される」という、本質的直観だったと言えるのです(プラトン『饗宴』久保勉訳、藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書ほか)。
さて以上、『ダ・ヴィンチ・コード』の書評に始まり、その内容に関連する思想史的注解を幾つか行いましたが、ヨーロッパの神秘主義の精神的底流には、プラトンが『饗宴』で説いた愛の哲学とイデア論が、消えることのない大きな刻印を残しています。したがってやはり、ブラウンが『ダ・ヴィンチ・コード』で描写したような、性的儀礼は、ヨーロッパ神秘主義の歴史的実情から見る限りは、フィクションであると言えると思います。
もっとも、角川書店のホームページのインタビュー記事によれば、ブラウン自身、自らの小説に対する批判については、「論争と対話は概して宗教に有益です。宗教の真の敵は無関心のみであり、熱心な議論こそ最良の対抗手段でしょう」と述べているように、今回のこの小説のブームは、ヨーロッパの「心性」(マンタリテ)の歴史への、新たな関心を広く喚起し、議論のきっかけを与えたという意味では、私は個人的にも歓迎すべき現象だとは思っています。
②【『ユダの福音書』とグノーシス主義について】 前回の私の記事、「ダ・ヴィンチ・コードの容認できない歴史誤認」に、早速トラックバックをつけて頂いた方々がいました。どうもありがとうございました。 さて昨日5月20日、いよいよ劇場公開された「ダ・ヴィンチ・コード」。もうご存知だと思いますが、その公開直前に、大きなニュースが飛び込んできました。すなわち米国のナショナル・ジオグラフィック協会が、先月6日、1970年代にエジプトの砂漠地帯のミニヤー付近から、いくつかのパピルス写本とともに発見・盗掘されたものの、所有権の問題から長らく研究されずに保管されていた、グノーシス派による幻の『ユダの福音書』が、5年間に及んだ、1000以上もの細かい断片の修復・解読作業を経て、その約8割の内容が判明・英訳されたと、ワシントンの本部で発表しました。 そしてそれによれば、イエスはユダに、自らをローマの官憲に引き渡すように指示したとされます。
『ユダの福音書』は、2世紀のリヨン司教エイレナイオスが、その著作で批判的に言及していたものですが、写本の現物は今回のものが現存する唯一のもので、放射性同位体による年代測定では、紀元後220~340年という結果が出ています。『ユダの福音書』は、インクにより13枚のパピルスの表裏に、古代エジプト語(コプト語)で書かれ、1~2世紀に書かれたと思われる、ギリシア語原典からの翻訳であると考えられています。鑑定分析にあたった学者たちは、『ユダの福音書』のグノーシス的主張が、史実かどうかは議論が分かれるが、「初期キリスト教の多様性を示す、非常に重要な発見」と話しています。解読にあたったコプト学者のロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授は、「真実ならば、ユダの行為は裏切りではないことになる」とし、内容や解釈について、世界的に大きな論争を巻き起こしそうだといいます。
『ユダの福音書』は、「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まり、イエスは、ほかの弟子とは違い、唯一イエスの教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」とし、自らを官憲へと引き渡すよう指示したと書かれています。このイエスの指示からわかるように、『ユダの福音書』の背景にあるのは、古代キリスト教最大の異端思想である、グノーシス主義です。
グノーシス主義では、物質世界と肉体を創造したのは真の神ではなく、偽りの神、もしくは悪神であるとして、肉体にとらわれている真なる神的本質である魂を開放し、魂と真なる神との神秘的合一を希求しました。その立場からすれば、『ユダの福音書』の記述は、イエスが自らの神的本質の肉体からの解放のために、ユダに、自らを官憲へと引き渡すように指示したことになります。
グノーシス研究の世界的権威である、米国プリンストン大学のエレーヌ・ペイゲルス教授は、今回の解読について、同協会の取材ではこう述べています。 「この見解に同意するかどうかはともかく、きわめて興味深い見方です」。「『トマスの福音書』や、『マグダラのマリアの福音書』など、2000 年近くほとんど知られていなかった他の古代の文書と同じように、『ユダの福音書』も、なじみ深い福音書の物語に斬新な見方を与えてくれます。これらの発見は、キリスト教の始まりに対する、私たちの理解を変えつつあります」。
このように、異端グノーシス主義の問題は、イエスの実像と、キリスト教の歴史の根幹にも深くかかわるものですが、しかし、当ブログの「ダ・ヴィンチ・コードの容認できない歴史誤認」で述べたように、ダン・ブラウンは、グノーシス主義の解釈においては、明らかな間違いを犯しています。そこで今回は、ごく簡単にですが、グノーシス主義の思想的本質について、私見を述べたいと思います。
いわゆるグノーシス主義は、今日の多数意見では、キリスト教よりも古いとは言えないまでも、元来はそれとは別に、エジプト・シリア地方に誕生した「異教」とも考えられ、やがてはキリスト教とも融合し、2世紀のヴァレンティノス派などのキリスト教グノーシス派が多数出現し、4世紀頃まで存続しました。「グノーシス」とは、ギリシア語で「知識」「認識」を意味し、人間の本来的自己としての神性の認識、その神的霊魂の元型的故郷の認識・啓示を意味しています。
グノーシス主義は、現世的・物質的世界を強く否定する、「反宇宙的二元論」に最大の特徴があり、人間霊魂の神性の回復、絶対者と自己との神秘的合一を志向した宗教運動であり、これに関しては、近年わが国でもその原典の大部分が邦訳で読めるようになりました。
グノーシス主義が興隆した、紀元2~3世紀の東部地中海世界は、歴史上でも稀に見るほど、諸思想が諸宗混交的に展開した時代で、諸宗混交(シンクレティズム)とは、文字通り諸思想の融合や、重層関係を指す言葉ですが、この時期の諸宗混交現象としては、特にオリエント・ギリシア系の密儀宗教や、太陽神・太母神崇拝、あるいはユダヤ・キリスト教系の終末論や黙示録思想では特に顕著とされ、20世紀最大の宗教学者の一人ミルチア・エリアーデ(1907~86)は、古代地中海世界の諸宗混交現象を指して、農耕の開始による「新石器時代革命」にも比肩すると述べています。
中でも、紀元前のプトレマイオス朝以来の国際文化都市であったアレクサンドリアは、名高い大図書館とムセイオンに象徴されるように、ギリシアのアテネが久しく退潮していた中にあって、ヘレニズム期以来の学問と文化の総本山として活気を呈し、プラトンの『ティマイオス』の宇宙創造論と、ユダヤ教とを調和させようとしたことで知られる、一世紀のアレクサンドリアのフィロンを輩出するとともに、やがてはグノーシス主義や、ヘルメス主義、あるいはプロティノス(205~270)の新プラトン主義や、ペルシアのマニ教などの、ギリシア、並びに東方の神秘思想や、哲学の様々な学派が入り乱れ、高い水準の研究と活発な論争が展開される、「哲学都市」でした。
私は、ヨーロッパ精神史の系統発生を読み解く三つの鍵としては、「女性原理と愛の哲学」「神秘主義の諸潮流」「魔術と宗教と科学の関係史」を重視していて、この三つの鍵概念のもと、その具体的歴史展開を一貫して追跡したものが、拙著『ヨーロッパ時代精神史』であるわけですが、農耕の開始による「新石器時代革命」から、オリエント古代史を経た後の、ヘレニズムとヘブライズムの結節点の時代環境の中からのイエスの登場、その後のシンクレティズムへと展開する古代精神史においては、特にプラトン主義と、キリスト教の二つの歴史的潮流が、やはりグランドセオリーとして突出した位置を占めているものと考えています。つまりさまざまな思想が発生する、いわば系統樹の幹になっているものと考えます。
グノーシス主義においても、最も影響力があったのは、キリスト教グノーシス主義に属するヴァレンティノス派だったとされますが、現在では、ヴァレンティノス本人については断片的資料が残るのみで、いわゆるヴァレンティノスのグノーシス神話体系として知られるものは、実際には弟子のプトレマイオスの教説として伝承されたもののようで、エイレナイオスもその著作の冒頭で、プレマイオスのグノーシス神話を詳細に記述しているといいます。
そして、グノーシス主義の最盛期は2世紀で、最大の中心地は、やはりエジプトのアレクサンドリアでしたが、古代宗教史の大家フランツ・キュモンや、ミトラ教の研究者フェルマースレンの訳者としても著名な、オリエント史家の小川英雄さんは、『ローマ帝国の神々』(2003)では、「グノーシス主義については四つの起源があったと思われる。すなわち、(一)ヘレニズム時代のギリシア思想、(二)ユダヤ教の黙示思想、(三)キリスト教、(四)オリエント系宗教各派であるが、グノーシス主義者は、このような区分にこだわることなく、自由に自らの思想を構築した。彼らは自由思想家であると同時に、禁欲主義者であった。なぜなら、彼らはすべて現世否定を説いたので、世俗的欲望には消極的であった」と指摘しています(166頁)。
今日、グノーシス主義についての研究が飛躍的に進展したのは、1945年にエジプトで「ナグ・ハマディ文書」が発見されたことで、それまでに存在した若干のグノーシス原典や、批判者側の記録であるエイレナイオスやヒッポリュトス、あるいは4世紀のエピファニオスによる記録などから、断片的にしか知られなかったグノーシス主義の思想的実像が、はじめて原典を通して明らかになったことが大きいです。中でも『トマスによる福音書』は、イエス語録という文学形式から、今日ではほぼ定説となった、いわゆる「Q資料」説との歴史的兼ね合いという観点からも、資料的価値が注目され、学会に大きなセンセーションを巻き起こしました。
岩波書店の「ナグ・ハマディ文書」全四巻の責任編集をつとめ、エレーヌ・ペイゲルスの『ナグ・ハマディ文書-初期キリスト教の正統と異端』の訳者でもある荒井献さんによれば、『トマスによる福音書』の原本に当たるのは、2世紀半ばまでには書かれたであろう、現存しないシリア語版『トマスによる福音書』だということです。
一方、問題の「ダ・ヴィンチ・コード」とグノーシス主義の関連について言えば、ダン・ブラウンは、グノーシス主義の積極的・肯定的な面として、専門家により指摘されている点、すなわち、そこでは正統キリスト教会以上に、女性が自由に行動でき、尊重されていたことに着目し、女性、中でも当時、正統教会では「娼婦」と見做されていたマグダラのマリアが、グノーシス派一般においては、ペトロを批判的に超える存在として、非常に高い位置を占めている点に着目し、『ダ・ヴィンチ・コード』を構想したと推察されます。
マグダラのマリアは、『トマス福音書』では「マリハム」と呼ばれ、語録114では、ペトロの非難に対して、イエスはマリハムを強く擁護していますが、さらに『フィリポ福音書』では、マグダラのマリアはイエスの「伴侶」とも見なされ、「主は彼女を弟子たち以上に愛した。そして主は彼女の唇にしばしば接吻した」とさえ言われます。さらに、マグダラのマリアは、『マリア福音書』と、『ピスティス・ソフィア』では、復活のイエスにより、直接密かに「奥義」を啓示される存在となっているようです。
しかしブラウンが飛躍するのは、ここから先で、『ダ・ヴィンチ・コード』では、イエスとマグダラのマリアは結婚していて、子供ができ、その血脈が現代まで続いているというのが、小説のプロットです。またグノーシスと関連する箇所としては、「古代には、男性は精神的に未完成であり、聖なる女性との交接(聖婚)によってはじめて完全な存在になると信じられていた。女性との肉体的結合は、男性が精神的に成熟し、ついには霊知(グノーシス)―神の知恵―を得るための唯一の手段だった」(下巻105頁)とあり、当ブログでも指摘したように、こうしたタントリズム的な宗教の型は、古代や近代以降ではともかく、グノーシス主義の主流を含め、殊にヨーロッパ中世のカタリ派や、ルネサンス期の魔術・神秘主義思想の本流にいたっては、事実上西洋ではその実例がないというのが、やはり歴史的実情だと私は考えています。
ただ、今回のこの小説の世界的ヒットにより、わが国でもヨーロッパの忘却された思想系譜に対する関心が、何らかの形で喚起されたことは確かですから、好ましい現象だとは思いますが。問題は、このきっかけを単なるブームには終わらせずに、本当の意味でのヨーロッパの歴史の深層の理解が定着すればと願っています。
最後に、今回の『ユダの福音書』の解読については、1970年代の発見後、解読までに同書がたどった紆余曲折をめぐる事情が、ナショナル・ジオグラフィックのHPに出ています。また、同誌の日本語版の特集記事については、現時点で二冊出ている書籍は、発見後、解読までに同書がたどった紆余曲折をめぐる事情と、解読をめぐる学者たちの調査の内容、つまり『ユダの福音書』写本の放射性炭素年代測定や、文体・インク等の分析、細かい断片となっていた写本の修復の過程などについての記事がメインのようで、注目される『ユダの福音書』自体の本文の翻訳は、その一部が掲載されているだけのようです。やはりじきに出版される、『ユダの福音書』全訳本を購入したほうがよいと思います。
それにしても、5月20日の「ダ・ヴィンチ・コード」の劇場公開直前の今回の解読の発表は、偶然というにしては、劇的な気もします。しかし、ナショナル・ジオグラフィック協会が、何らかの意図をもって、このタイミングを選んだのかどうかについては、興味深いところではありますが、不明です。やはり偶然なのでしょう。 「ダ・ヴィンチ・コード」をめぐっては、そのストーリーが盗作だとして、英国の『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちから訴えられるという一騒動もありましたが、裁判の結果、訴えは斥けられました。またブラウンの次回作は、どうやら有名な近世の秘密結社フリーメイソンを題材としたものだといい、予定で は出版は2007年になるということです。
③【『タリズマン』とヘルメス思想について】『ダ・ヴィンチ・コード』により、不正確に取り上げられたことで、一般の関心も大きくなったグノーシス主義。その後の『ユダの福音書』原典の解読は、それに拍車をかける形になりましたが、グノーシス主義に関しては、近年わが国でもその原典の大部分が岩波書店から出版され、邦訳で読めるようになったこともあり、より学問的な興味が次第に高まっています。また、このテーマを扱ったノンフィクションも出版されています。例えば『ダ・ヴィンチ・コード』と同じく、やはり西欧の秘密結社の系譜を扱ったものとしては、グラハム・ハンコックによる、『タリズマン 秘められた知識の系譜』があります。 古代文明の謎を追究した世界的ベストセラー『神々の指紋』で知られるグラハム・ハンコック。『オリオン・ミステリー』で知られるロバート・ボーヴァル。この二人の共著として書かれた『タリズマン』(「護符」の意)。「大いなる異端の連鎖」、あるいは「秘められた知識の系譜」を追うと銘打つこの本は、中世ヨーロッパの知られざる、ある禁欲的異端宗派の記述から始まります。そして上巻の執筆者グラハム・ハンコックは、172頁ではこう述べています。 「本書の一番の関心は、ある秘密の宗教が長期的に生き残ったのではないかということにあり、その宗教が『正統』か否かではない。だから、カトリックとカタリ派のどちらが『本物』のキリスト教なのかという厄介な問題を、これ以上追求しない。だが、新約聖書の随所に見られる穏やかで愛情深いイエスの精神と、13世紀前半に自由の地、オクシタニアを蹂躙したカトリックの聖職者や騎士たちは、どう考えても相容れない」。 さて、文中の「ある秘密の宗教」とは、古代キリスト教最大の異端、あるいはキリスト教と同時期に、元来は独立に発展した異教とも考えられる「グノーシス主義」のことです。「グノーシス」とは、ギリシア語で「知識」「認識」の意で、人間の本来的自己としての神性の認識、その神的霊魂の元型的故郷の認識・啓示を意味しています。またカタリ派とは、中世キリスト教史上最大の異端思想で、南仏ラングドック地方の都市を中心に広範に流布し、上は貴族階級から下は商人・農民階層にいたるまで、多くの帰依者・信奉者を集めた宗教運動でした。 グノーシス主義とカタリ派に共通する特徴としては、この地上の物質世界の創造者を、真の神から見れば下位の神、劣った神、あるいは悪神と見ることや、イエスは肉体を持って地上に出現したのではなく、真の神からの流出として、霊的な存在であったと見ること。従ってその受難も表面上のことにすぎないこと。また、グノーシス主義でもカタリ派でも、女性の活動が正統教会以上に自由で活発に行われたことなどがあります。 グノーシス主義は、プラトニズム・ユダヤ教・ペルシアの宗教などの混交の中から形成され、やがてはキリスト教とも接触する中で、より異教に近い流派、よりキリスト教に近い流派などに、3世紀頃までかなり多くの異端的分派(60ないし80を下らない)を生んだとされる、一大思想潮流です。しかしグノーシス主義は、東方に布教されたマニ教を別とすれば、キリスト教が国教化される4世紀前後には、アルメニアなどの「避難所」を除き、ほとんど消滅してしまいます。その消滅の直接の理由は、やはりこの人々が、旧約の神による世界創造を極端に否定視したからです。こうして表面上は歴史の表舞台からは消えたグノーシス主義ですが、グラハム・ハンコックは、東方のビザンツ帝国領内では、グノーシス主義は完全には消滅せず、一部の異端宗派として存続したと見ています。このような見方自体は、別に真新しいものではなく、この分野の専門家のユーリ・ストヤノフの『ヨーロッパ異端の源流』(邦訳平凡社)にも書かれています。 具体的に言うと、4世紀以降にアルメニアや小アジアに現れたマッサリアノイ派、7世紀に現れたパウロス派などを指していますが、とりわけ重要なのは、10世紀にブルガリアに現れたボゴミール派であり、このボゴミール派の教義が西欧に伝来して、カタリ派に結実したというのが、今日までの研究者の一致した見解となっています。西欧で確認できる最初のカタリ派は、1022年にフランスのオルレアンに現れ、西欧での異端に対する初の火刑が行われていますが、その後しばらくは異端の消息が途絶え、1143~44年にドイツのケルンで確認され、やはり弾圧を受けています。「カタリ」の語源は、ギリシア語で「純粋」を意味する「カタロス」から来ていますが、信徒自らは自分達をこの名称では呼ばなかったようで、単に「善きキリスト教徒」と自称するのが普通でした。カタリ派の一般信者が「帰依者」と呼ばれるのに対し、その中核だったのは、「完全者」、または「善信者」と呼ばれる人々で、黒い長衣に身を包んだ完全者は、自身の魂を極度の純粋状態に置くべく、悲惨なまでの努力に身を捧げた者たちで、菜食主義に徹し(但し魚は除く)、各週3日間は断食をしました。 そして歴史的にはカタリ派は、北イタリアのロンバルディア地方と、南フランス最南部のラングドック地方で最も普及しましたが、「ラングドック」とは「オックの言語」の意で、オック語は別名ではプロヴァンサル語とも呼ばれ、北仏のオイル語(今日のフランス語の起源)とは違った言語で、その名の由来は、今日の「ウイ」に当たるフランス語が、中世の北フランスでは「オイル」、南フランスでは「オック」と発音されたことにあります。そしてこのことから、ラングドッグとほとんど同じ意味で、「オクシタニア」という呼び方もあるのです。 中世の南フランスは階級差が比較的小さく、言わば「不完全封建制」の下で、中小の領主が群雄割拠していましたが、カタリ派がこの地で隆盛した一因として、彼らがカタリ派支持に回る場合が多かった点が重要です。そして大領主自らが、カタリ派に入信した例はないですが、それでもその家系での、女性完全者は珍しくなく、例えばカタリ派に対しては、専ら不鮮明な態度に終始した、トゥールーズ伯レモン六世(在位1194~1222)の二度目の妻、ベアトリス・ド・ベジエは、離婚して完全者となっていますが、その際に伯は何ら反対しませんでした。 他方、こうした状況がローマ・カトリック教会にとっても、あるいはフランス王家にとっても、決して好ましいものでなかったのは確かなようで、カトリック教会の態度が次第に硬化してきます。そして教皇インノケンティウス三世は遂に、カタリ派撲滅のための「十字軍」を起こすことを決意するに至り、1208年3月9日に、以下の書簡を南仏各地の大司教、並びに仏国王フィリップ二世を始めとする、フランスの有力諸侯たちに宛てて送るのです・・・。 「それを追い払わねばならない。その共犯者らを含めて、主の天幕から。彼らを土地から閉め出し、異端者を取り除いた後に、カトリックの住民がこれに代わるようにせよ。・・・信仰は立ち去り、平和は死に、異端というペストと、猛々しい狂気が新しい力を獲得してしまった。・・・諸君らが時を移さず、かくも重大な危険の救済に赴く限り、われわれは諸君に、諸君らの罪の赦免を約束する。平和と愛の神の名において、住民を平定すべく努力せよ。神が諸君らに啓示する、あらゆる手段を以て異端の壊滅に力を尽くせ。手に力を込め、腕を大きく伸ばして、サラセン人に対する以上の確信をもって、異端者と戦ってほしい。彼らはサラセン人にも増して危険なのだ」。 こうして、教皇の呼びかけに応じた十字軍、「アルビジョア十字軍」は、まずローヌ河沿いに南下し、モンペリエに進軍した後、ベジエの町を包囲し、7月21日には当地で空前の惨劇を展開しますが、ベジエは2日間燃えた続けた後に陥落し、約9千人から1万2千人の人々が虐殺され、生存者は皆無だったと考えられています。そしてこの後も、十字軍による悲劇には事欠かきませんが、戦争それ自体は、1229年4月12日の「パリ条約」(別名「モーの協約」)により、その前半戦を終えます。これは、幼いルイ九世(後の聖王)に代わり、母ブランシュ・ド・カスティーユと、教皇特使で枢機卿のロマン・ド・サンタンジュの提案を受け、レモン七世(1249年没)が、和平交渉に踏み切った結果でしたが、交渉に応じる条件として、レモン七世がトゥールーズ伯にして、フランス王の封臣であることを、王家が認めるという前提がありました。しかしモーの協約で、伯の領土は半分以下に減らされ、また、当時どちらも9歳だった、レモン七世の娘ジャンヌと、王ルイ九世の弟アルフォンス・ド・ポワティエを娶わせ、ジャンヌを伯の唯一の相続人とすることも決められ、これにより、伯領は言わば、「嫁資」として王家に差し出された格好になりました。 また、1229年11月には、枢機卿サンタンジュの主催により、トゥールーズに教会会議が招集され、会議の決定により、以後、南仏では聖職者以外の者が聖書を持つことが禁止され、異端者の探索と通報の組織も、従来とは比較にならないほど強化され、1233年4月には、インノケンティウス三世の甥に当たる、時の教皇グレゴリウス九世が二つの教令を発し、この結果、従来の司教裁判権の外側に、教皇直属のドミニコ会士による、異端審問権の確立を見たのであり、この教令こそは、キリスト教異端審問制度の直接の起源となりました。 こうしてカトリック側の異端追求システムが次第に整う中で、南仏ラングドックの「異端カタリ派」、最期の拠点として歴史に登場するのが、ピレネー山麓にあり、天然の要害と言うべき、海抜1206mの「モンセギュール城」でした。この時期に、ラングドック各地からモンセギュールを目指した信徒の数は、総計で千人を超えるとも言われますが、こうした中、1242年5月28日に、再び事態を急転させる事件が発生します。すなわち、かねてより地元住民との軋轢の絶えなかった、異端審問官ギヨーム・アルノーの率いる総勢11名が、トゥールーズとカルカッソンヌの中間辺りに位置する、アヴィニョネ城で惨殺されたのです。迅速、周到、且つ広範囲な手配りで計画が漏洩していないことを見ると、事前から地域を挙げての行動だったとしか思えず、事件には、後にはモンセギュール籠城戦の戦術上の指導者となる、レモン・ド・ペレイユの娘婿の、ピエール・ロジェ・ド・ミルポワ等の騎士の他、恐らくはレモン七世自身も関与したとされます。しかしいずれにせよ、これはもう、モンセギュール撃つべしという、契機以外ではなく、伯レモン七世は、ローマへ懺悔の旅に出ますが、もはや事態の収拾は不可能でした。 かくして、青地に百合の花の王旗を靡かせて、新しい十字軍がモンセギュールを包囲したのは、翌1243年5月13日でした。守るカタリ派側は、全体で400人、騎士を含めた戦闘員は、ほぼ200人に過ぎませんでした。しかし、その垂直に近い断崖絶壁のために、包囲戦はそれから半年間は膠着状態が続きます。しかし、やがて投石機により、城壁越しに巨大な石塊が間断なく人々を襲い始めます。そして日に日に状況が悪化する中、全滅を避けるため、翌44年2月末には、カタリ派側が和平交渉を申し出ますが、交渉の結果、城の明け渡しは二週間の猶予を置いた16日と決まりました。また交渉では、異端信仰を捨てれば、審問所での供述を条件に、皆釈放することも約束されました。 しかし、無論敵側は、完全者に関する限り、信仰を捨てないだろうということを百も承知していました。そして実際、結果はその思惑通りとなります。すなわち、自ら火刑を選んだ完全者たちは、固い絆で結ばれた生き残った帰依者に、形見の品々を贈り、また記録によれば、守備隊長のピエールには、「ドゥニエ貨の詰まった毛布」が託されました(なお一説では、この時にある秘密の「宝」が託されたともいわれ、憶測をよんでいますが、それが何であったのかは不明です)。 こうして1244年3月16日、最期までカタリ派信仰を守った、210人ほどの完全者たちは、モンセギュールの麓で火刑に処され、約1世紀間、ここ南仏ラングドック=オクシタニアの地に栄えた「異端カタリ派」は、事実上、南仏世界からはその姿を消すのです。なお現在では、モンセギュールの麓に、小さな慰霊碑が建っています。 一方、最終的制圧のため、異端審問官にはカタリ派の残存者探索が引き続き課されましたが、カタリ派の残存者探索という、審問官の任務は、知られる限りでは「最後の完全者」である、農民出身のギヨーム・ベリバストの、1321年8月の火刑を以て事実上完了し、こうして、古代のグノーシス主義の末裔であったカタリ派は、その活動を文字通り完全に終焉します。 ところで、この時期以降もなお、カタリ派の直接の起源に当たる、東方のボゴミール派は健在でした。しかしそれも、14世紀になってオスマン・トルコの動きが活発化し、ビザンツ帝国のあちこちで領土を削り取ったこともあり、次第に勢いが衰え、1393年にブルガリアが征服されると、同地でボゴミール派の名を聞くことはなくなったといいます。そしてボスニアの信徒たちも、15世紀にはイスラム教に集団改宗したのでした。これらの点について、グラハム・ハンコックはこう言います。 「とどめを刺したのはイスラム教徒だったが、その頃までにはカトリック教会も正教会も異端に対する警戒を強めていたから、ボゴミール派がキリスト教世界で教えを広め、信者を増やす機会はいずれにせよ、二度と訪れなかっただろう。 オクシタニアが失われたとき、すべてが失われた。1000年ぶりに好機が訪れ、ものにしたが、最後には奪われた。 古代のグノーシス主義的な宗教は、数世紀の年月を経て、暗闇から再び現れ、それまでとはまったく異なる見解のキリスト教を提示し、力強く花開いて世界に広まる兆しを見せながら、結局は完全に失敗してしまった・・・・・・。 本当にそうだろうか? ボゴミール派の残り火がスルタン・メフメト二世のボスニア侵攻によって消される少し前の1460年夏、レオナルド・ダ・ピストイアというトスカーナの僧が、ロバでひっそりとフィレンツェに入った。ロバの脇腹には、布に包んだ一揃いの書物がくくりつけられていた。 長い旅を終えたレオナルドは、貴重な荷物をフィレンツェの総督コジモ・デ・メディチのもとに、直接届けた。 知的な『核爆弾』が、まもなく炸裂しようとしていた」。 イタリア・ルネサンスの都、フィレンツェ。「ルネサンス」とは「再生・復活」の意ですが、この「ルネサンス」という言葉を聞いて、人は何を想起するでしょう。フィレンツェのボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ラファエロ、ミケランジェロらの華麗な芸術作品でしょうか。ローマのサン・ピエトロ大聖堂の設計プランや、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂などの荘厳な建築美でしょうか。もちろんこれらも、ルネサンス文化の貴重な精華でしょう。しかしこうした側面とともに、後世への文化的影響力においては、全くひけをとらない、むしろより大きな役割を果たしたとも言える、知られざる、ある思想史的側面がありました。 20世紀になり多くの研究者により再認識され、今日では、それを抜きにしてはルネサンス文化は語れないと言っていい、この思想の名を、「ヘルメス主義」といいます。そしてルネサンス期における、「ヘルメス主義の復活」には、パトロンとしてのメディチ家の存在が、決定的に重要だったと考えられています。経済的大躍進を遂げたフィレンツェは、1300年頃には、人口が9万~10万を数え、パリ、ヴェネチア、ジェノヴァと並ぶ、当時の西ヨーロッパ世界最大の都市の一つでした。しかし1340年代以降、ヨーロッパ全体を巻き込んだ不況、飢饉、ペスト(黒死病)による社会的危機、また英仏百年戦争の開始による金融業の貸し倒れにより、フィレンツェは深刻な危機を迎えます。そしてペストにより約4万人が死亡し、また多くの商会の倒産により、既存の有力家門の力関係が変化しますが、これ以後、少しずつ台頭し始めた新興一族の中に、メディチ家も含まれていました。 そして1434年には、コジモにより、メディチ家はフィレンツェの実質的支配者となりますが、コジモの時代から、メディチ家の学芸パトロンとしての活動も本格的に開始され、コジモ自身、古今の書籍の収集には、異常なほどの関心を示したのでした。また、コジモの外交的成功を象徴するのは、1439年7月にフィレンツェで開催された、東方教会とローマ教会の合同公会議ですが、ビザンツ皇帝ヨハネス・パレオロゴス八世とコンスタンティノープル総主教に率いられた、総勢700人の大使節団の来訪は、コジモ治下のフィレンツェの繁栄を国際的にアピールし、さらに、当時の人文主義研究にも、多大なる影響を与えることになります。この点について、『メディチ家』の著者、森田義之氏は次のように書いています。 「1439年にフィレンツェで東西両教会の合同会議が開かれた際、コンスタンティノープルから著名なプラトン学者のベッサリオンや、ゲミストス・プレトンが来訪して注目をあつめると、コジモはとくにプレトンと個人的交わりをもち、彼の提案によって、古代ギリシアの『アカデメイア』にならったプラトン・アカデミーを構想する。 このプラトン・アカデミー(アカデミア・プラトニカ)は、組織的な学校や団体ではなく、フィレンツェにいくつか見られた私的な学術サークルのひとつであったが、コジモは、将来のこのサークルの中心人物として、侍医の息子の、マルシリオ・フィチーノ(1433~99年)に白羽の矢を立て、生活費を全面的に援助して、ギリシア語・ラテン語の習得に専念させた。フィチーノは、この期待にこたえて、やがてイタリア随一のプラトン学者に成長し、コジモの生前からプラトンの全著作のラテン語訳に着手するのである。後年、フィチーノは、コジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコへの手紙で、コジモのことを愛情をこめて回想している。 『私は12年以上にわたって彼とともに哲学に身を捧げました。彼は政治において慎重で剛健であったように、哲学の議論において鋭敏でした。たしかに私はプラトンに多くを負っていると言わねばなりません。しかしプラトンが一度だけ勇気という理念を私に示してくれたとしたら、コジモはそれを毎日私に示してくれました・・・・・・彼はこの闇の世から光の国に旅立つ最後の日まで、知識の獲得に献身的でした』」。 さて、文中にあるアカデミア・プラトニカの設立が実現したのは、コジモの亡くなる前年の1463年でしたが、その学長であり、いまやイタリア随一のプラトン学者となったマルシリオ・フィチーノは、1468年までには、プラトン全集のラテン語訳を完成しています。しかし実は、コジモは既に1463年には、プラトンのすべての著作に先んじて、その3年前に入手していた、あるギリシア語の著作のラテン語訳をフィチーノに命じていました。 ルネサンス期の思想家は、その著作を、プラトンやペルシアのゾロアスターよりも古く、モーセとほぼ同時代に生き、エジプトの知恵の神トート、あるいはギリシアのヘルメス神と同一視された、エジプトの伝説的賢者、ヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なるヘルメス)によって書かれたものと信じていました。そして、古代エジプトの賢者、ヘルメス・トリスメギストスによるものと信じられたその著作こそは、前述したように1460年に、レオナルド・ダ・ピストイアというトスカーナの僧が、ロバの脇腹にくくりつけてひっそりとフィレンツェに持ちこみ、コジモ・デ・メディチのもとに直接届けたものでした。 今日では研究者により、「ヘルメス文書」の、最も重要な作品の一つと考えられているこの著作の名は、『ヘルメス選集』といいます。『ヘルメス選集』は、正確には全部で18の冊子(その内第15冊子は欠番)から構成されている、ギリシア語による文書群です。そして第1冊子「ポイマンドレース」では、「原人アントローポス」の創造者で、両性具有であり、「光」であり「命」である、神的な「ヌース」(ポイマンドレース)による、幻視体験を通じて伝授された、世界創造の真相や、人間霊魂の死後の上昇などの教えが語られているようです。 一般に「ヘルメス文書」には、哲学・宗教・占星術・博物学・錬金術・魔術・歴史などの、実に広範な主題が扱われていますが、その書かれた年代については、紀元1~3世紀には成立したとされます。また書かれた場所は、間違いなくエジプトであったとされますが、例えばすでに、2世紀後半のキリスト教の教父アレクサンドリアのクレメンスによれば、当時重要不可欠とされていたヘルメス文書は42冊あって、その内36冊はエジプトの全哲学を含み、祭司たちがこれの研究に当るものとされ、エジプトの祝祭において、行列者は「古来の書物」を携行していたと証言しています。 またその作者については、現在まで定説はありませんが、訳者の一人柴田有氏は、一つの可能性として、その作者たちは「・・・・・・エジプトの、ギリシア・ローマ的な環境の都市で著作活動を行っていた。典型的にはアレクサンドリアの異教的知識人を著者の例とすることができる。アレクサンドリアの場合、単に知識人と言うだけでなく、神殿に属する神官と具示して良いように思われる」、と述べています。 「ヘルメス文書」についての国際的な学問研究に先鞭をつけた代表的研究者としては、ともに英国ロンドン大学のヴァールブルク学派に属した二人、『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』(1964年)のフランセス・イェイツと、『古代神学』(1972年)のダニエル・ウォーカーがいましたが、後者の題名となっている「古代神学」とは、フィチーノの著作『プラトン神学』(1482年)に直接由来する語です。そして、この「古代神学」という概念の起源となった人物の一人には、やはり前述した教父、アレクサンドリアのクレメンスがいました。 「古代神学」とは、一言で言えば、キリスト教の誕生以前にもキリスト教的な真理が、それぞれの民族の賢者により、人びとに教えられ、伝えられていたという概念です。例えばクレメンスは、ギリシア哲学、わけてもプラトン思想こそは、グノーシス主義や懐疑論に対して、信仰を擁護するため、そしてキリスト教の教義発展のために、不可欠だと考えていました。そしてギリシア思想の知は、キリスト教においてこそ、真に完成されると見做したクレメンスは、『ストロマテイス(雑録)』では、「真理は一つ」であるとの確信のもとに、人類の出会う全ての真理は、究極的にはキリスト教の神の真理に繋がるものであるとする普遍主義を表明しています。 つまりクレメンスによれば、かつて神は、それぞれの民族に、天使を通じて霊感を受けた賢者を与え、ある知恵を授けたが、その後、この原初の知恵は次第に低落し、古代神学の歴史は衰退の歴史と化した。しかしクレメンスにとり、この神の原初の知恵を再興するためにやって来た者こそ、すなわちキリストだったというわけです。 さて、このような巧妙な発想があったために、キリスト教ではヘルメス・トリスメギストスをも、「古代神学者」の一人と見做す伝統が、教父以来ある程度一般的となっていました。例えば、キリスト教を公認した313年のミラノ勅令の後、皇帝コンスタンティヌスの宮廷神学者として、その宗教政策にも影響を与えたと言われる、教父ラクタンティウスは、その『神学体系』で、ヘルメス・トリスメギストスはキリスト教以前の真理の予言者であり、プラトンやピュタゴラスよりも古い、学芸の祖であると認めています。 また、西欧の正統カトリック神学の確立に最も影響力があったとされる、教父のアウレリウス・アウグスティヌス(354~430年)でさえ、ヘルメス主義の魔術思想には厳しい批判を述べていたものの、ヘルメス・トリスメギストスの実在自体は信じ、ヘルメス・トリスメギストスを、モーセに近い時代の人物として認めていました。すなわち『神の国』第18篇では、「ヘルメス・トリスメギストスは、明らかにギリシアの哲人や賢人たちよりも遥かに以前であり、しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、あるいはモーセのあとであった。モーセの生れた頃には、偉大な占星術師アトラスが生きており、このアトラスは、大メルクリウスの母方の祖父であり、この大メルクリウスこそ、ヘルメス・トリスメギストスの父の親に当たるのである」、と述べています。 このように、古代キリスト教会の教父時代以来の「古代神学」という概念があったこともあり、キリスト教の歴史では、キリスト教から見れば異教文化に属する思想体系を、キリスト教神学と融合させる大きな試みの事例がいくつか知られています。代表的な例としては、プラトン思想とキリスト教を融合しようとした教父アウグスティヌス、9世紀のエリウゲナ、12世紀のシャルトル学派、アリストテレス思想とキリスト教を融合しようとした、13世紀のアルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスによるスコラ学の成立が挙げられますが、これらに関連して、米国の歴史家、A・W・クロスビーは次のように述べています。 「プラトンとアリストテレスは、中世とルネサンス期を通じて影響力を保ち続けた。その時期によって、どちらかの影響力が勝ることはあっても、どちらか一方が完全に廃れるということはなかった。聖トマス・アクィナスや(後期スコラ学者の、ニコル・)オレームの時代には、直接的な経験と精緻な論理を重視するアリストテレス主義が、急激に勢力を伸ばした。・・・15世紀になると、西ヨーロッパ人は北イタリアの学者たちによるプラトンの対話篇のラテン語訳を通じて、プラトン哲学の源泉に触れた。(また)北イタリアにはフランスと同様に複数の大学があり、アリストテレス主義を奉じる哲学者が居を構えていた。だが、北イタリアの旺盛な学問と芸術活動のセンターは大学ではなく、宮廷だった。・・・マルシリオ・フィチーノはメディチ家の学術顧問として彼らを導き、彼らの欲求を満たすべく粉骨砕身した。彼はプラトンおよび古典古代のプラトン主義者の著作を翻訳して、注解をほどこし、自らも新プラトン主義的な論文を著した」(『数量化革命』231頁、括弧は引用者)。 なお元来は、パリ大学とオクスフォード大学で形成された、後期スコラ学のアリストテレス主義の伝統が、北イタリアで本格的発展を見るのは、14世紀以降のパドヴァ大学とボローニャ大学においてですが、すでに『親近書簡集』(1351~53年)でのペトラルカなど、フィレンツェの人文主義者からは目の敵にされ、繰り返し攻撃されていました。しかしその伝統は、15・6世紀を通じて全く衰えず、むしろガリレオ以前のキリスト教自然学を代表する存在であり続け、西欧近代科学を準備した、人文主義的アリストテレス主義を展開しました。 これに対して、古代神学を根拠にして、種々の異教思想とキリスト教の融合による、「人間精神と世界の普遍的改革」を目指したイタリア・ルネサンスは、しばしば科学史上では、14世紀のスコラ学者たちと、17世紀の科学革命の推進者たちに挟まれた、成果の貧しい時代だと性格づけられることがあります。しかし、後世にそのままの形で残るものを持たなかったからといって、歴史家はこの時代について思考停止してはならないでしょう。 事実、ルネサンス期に見られた顕著な現象とは、既成宗教権力と不可分に結び付いた旧来の大学の外で遂行される、新しい学問の型を生み出したことであり、しかもその際、一般にルネサンス人にとっては、世界の観念上の中心に人間を据えるためには、アリストテレス主義よりも、プラトン主義やヘルメス主義の方が都合がよかったのです。 例えばマルシリオ・フィチーノは、『プラトン神学』では、世界を、神・天使・人間霊魂・性質・物質の5段階に分け、霊魂をちょうど中央の位置を占めることから、第3の実在、あるいは中央の実在と呼んでいます。つまり神から下方へと数えても、また物質から上方へと数えても、常に中央に位置し、世界の生命の結び目になっていると言います。そしてフィチーノによれば、神と物質は両極を成しており、天使も性質もこの両者を媒介することはできないといいます。 なぜなら、天使は神の方を、性質は物質の方を向いているからです。従って、ただ霊魂を備えた被造物、すなわち人間のみが、物質的事象にも、また神的事象にも向うことのできる、自由な存在だというのです。そして人間の現在、もしくは将来のあり方は、自身のよき選択にかかっているのであり、結局「われわれの霊魂の全ての努力は、神になることを目指している。人間にとりこの努力は、鳥にとっての飛ぶ能力と同様に、本性的なものである。実際それは、いついかなる所でも全ての人間の内に存在する。従ってそれは、あれこれの人に見出される偶有的な性質などではなく、種族の本性そのものに由来している」と言います(『プラトン神学』)。 ところで、フィチーノが典拠とした古典作品の中には、プラトン自身の著作や、思想史上、通常新プラトン主義と呼ばれる、エジプト生まれのプロティノス(205~70)などの、古代の新プラトン主義者たちの作品が含まれただけではありませんでした。前述のようにヘルメス・トリスメギストスや、さらにまた、ゾロアスター、ギリシアのオルフェウスやピュタゴラスに帰せられるような著作も含まれていました。それらの著作は、近代の文献学により、想定されるよりも新しい古代末期の偽作と認められましたが、フィチーノはそれらを、彼の先人や同時代の多くの者と同様に、プラトンやその弟子たちよりも前であり、彼らに示唆を与えた、あるきわめて古い異教の哲学や神学のあがめるべき証拠、つまり「古代神学」と見做しました。 そしてヘルメス文書の中で、哲学的・宗教的著作として重要である『ヘルメス選集』のギリシア語写本は、1460年頃初めてイタリアに伝えられ、コジモ・デ・メディチは、1463年にそのラテン語訳をフィチーノに命じました。なお実は、フィチーノが訳出した『ヘルメス選集』は、彼が拠った写本の欠損のために、最後の第16・17・18冊子を欠いていたのですが、さっそく果たされた翻訳は、『ピマンデル』という題名を与えられ、1471年には印刷刊行されました。 『ヘルメス選集』のギリシア語は、後期ヘレニズム時代のものであり、多くの研究者の一致した見解によれば、その主要教義は、プロティノスの著作『エンネアデス』によって最も広く知られているものと無関係ではない、神秘的プラトン主義のそれに近いといいます。とはいえ、多数の著者の手になり、しかもさまざまな思想の影響が入り混じっているため、ヘルメス文書は、あらゆる点で相互に首尾一貫しているわけではありません。実際、最も注目するべき点は、ヘルメス文書の中で優勢な、世界創造に対する肯定的論調が、ときおり見られる、グノーシス的な悲観的論調により否定されていることです。 例えば、『ヘルメス選集』第12冊子では、人間は、その天性を正しく用いれば、不死の神々と何ら変わらないものとなるだろうし、最終的には、神々や天上の嘉された者の一団のもとへと導かれるだろうと主張されるにもかかわらず、同第6冊子では、人間の内には、善という名辞以外には、何ひとつ善きものはなく、世界は「悪の充満」であると述べられている点などです。 一方、ヘルメス文書には、彫像の中に天の力を引き入れて生かすといったような、さまざまな秘術や、魔術師の霊魂を向上させて、星の神性にまで達するためのいろいろな過程なども記載されています。ヘルメス主義の魔術師たちは、恒星と惑星からたえず放出されている影響力の流れをとらえ、制御する術を学ぶならば、自らの魔術をもっと高い段階へと上げることができると信じていたようです。 例えば、ある適当な時刻に、ある特別な惑星の能力を、その惑星に適した材料で作り、特別な符号や形象を刻んだ物体の中へ引き入れれば、強力な「護符」(タリズマン)を作ることができると考えました。今日、大英博物館に保存されている魔術用の護符にも、『ヘルメス選集』の第1冊子の数節を刻んだ護符がありますが、護符以外にも、古代の墓碑とその装飾品などに、ヘルメス思想の明らかな影響が認められる例が見つかっているようです。 さて、フランセス・イェイツによれば、ヘルメス文書の重点は、物質世界の肯定的な解釈の方におかれていますが、例えばあるテクストによれば、「この世界の大きな肉体は一つの霊魂であり、知性と神に満ち、それは世界の中と外を満たしてすべてを活気づける」。また別のテクストは、「世界の美しい配置を熟視せよ、そうすればそれが生きており、すべての物質が生命に満ちていることがわかる」と説いています。一般に、世界の創造に肯定的な魔術師は、世界と性愛的な関係にあるということもでき、魔術師は地を天へと結びつけるさまざまな共感に愛情的共感によって関わりあうことで、自分の力を引き出したのだと、イェイツは見ているようです(『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』1964年)。 世界の創造を肯定的に見るか、否定的に見るかの違いを別とすれば、プラトニズムやグノーシス主義、ヘルメス主義の魔術的世界観・宇宙論に共通する根本前提は、天上界には地上界の諸現象の原型・原因があるとする共感(シュンパティア)の思想、言い換えれば、マクロコスモスとしての天体的・天使的世界についての事象が、ミクロコスモスとしての人間世界や元素世界にも深く関わるとする、天と地の万物照応の思想です。例えば、フィチーノ最晩年の著作『三重の生について』は、魔術や占星術に対する関心が最も色濃く表れていますが、その第三巻の「天界から生を獲得することについて」では、惑星の影響力と結びついた、人間の四体液説にもとづいた病気理論と、その治療法である護符の使用や、音楽医療などを扱っています。 ヨーロッパでは古代ギリシア以来、人間の気質は、四つの体液と四つの元素と、それに惑星からの影響力が結びつけて考えられてきましたが、この四気質論に関して、ルネサンス期に新たに起こった変化とは、黒胆液-土-土星に与えられてきた否定的意味が、反転したことです。すなわち太陽から最も遠く、冷たく、重い星である土星に帰属された、いわゆる「メランコリー」(憂鬱)気質は、むしろ土星が、地球上の日常からは最も遠い星であるがゆえに、最高の神的真理を探究し、観照する、哲学的霊感の源とされました。そして後には、ドイツ・ルネサンスの巨匠、アルブレヒト・デューラー(1471~1528)が描くように、古代美術では喪と悲哀の、カロリング時代の芸術や細密画では思索の伝統的ポーズであった、「こめかみに手をあてた坐せる人間」の図像的小モチーフは、ついにメランコリアの表現に用いられ、まさしく象徴的価値をもつに至ったのです(「メレンコリアⅠ」1514)。 そして、この憂鬱質の再評価は、直接的にはフィチーノの著作、『三重の生について』に由来しますが、フィチーノは、自らもその星の下に生まれた、強力な土星からの影響力を抑える方法としては、快活な木星の影響力をとり込む護符を作ることや、音楽療法、薬物・食餌療法などをあげています。このように、フィチーノ自身による占星術的魔術は、その占星医学的な臨床のための、比較的簡単な処方の指針にすぎず、彼は、各人の出生時のホロスコープ(天球図)によって、その後のすべての運命が決定されるという意味での、厳密な宿命占星術は認めることはありませんでした。しかし他方で、フィチーノの人間論と宇宙論を見ると、そこにはやはり、一つの際立つ特徴が感じられます。それは、中世のアリストテレス的・スコラ学的静力学的宇宙論や、あるいは、近世のデカルト以後の無機論的機械論的宇宙論に対して、有機論的・動力学的特徴を備えているということです。 すなわちフィチーノによれば、人間は外見ほど貧弱な存在ではないし、世界は虚ろな機械ではない。むしろ「われわれは見るであろう。地がみずからの力で種子を生み、それを養い育て、木や無数の生き物を成長させることを。地はみずからの歯のように岩を押し出し、草をみずからの毛のように、その根でしがみついて離れぬ程度にまで押し出す。地からむしり取られ、根こそぎにされると草はもう伸びないのである。このようにおのずからして多産なのであるから、この大地という女性の腹が生命をもたぬと、どうして言えようか?」(『プラトン神学』)。 またフィチーノをはじめ、ルネサンス期の思想家に大きな影響を与えたヘルメス文書の最大の特徴の一つは、その人間礼讃の思想ですが、『ヘルメス選集』と並ぶ著名なヘルメス文書の『アスクレピオス』では、ヘルメスがアスクレピオスに向かってこう言います。「偉大なる奇跡、それは人間である、崇敬すべき、尊ばれるべき動物のことであり、彼はあたかも本性的に親戚であるかのようにダイモンの種族と通じており、あるいは、あたかも自分自身が神であるかのように神へと変化する」。「人間は万物の中で最大のものだから、奇跡に値する」。「彼は同時にすべてであり、同時にあらゆる場所である」。 そしてフィチーノによれば、「人間は単に物質を自己の用に使うだけではなく、動物のなしえないことであるが、それらを創造者の意図に従わせもする。もし神の叡知というものが全宇宙の存在条件であるならば、生命の有無を問わず、宇宙の全存在に心を配る人間は、おそらく一種の神である」(『プラトン神学』)。 フィチーノは、自ら訳した『ヘルメス選集』を、「神の権能と知恵について」書かれた書物と呼んでいますが、人間に能力、知性、美、果ては神に並ぶ地位を与えるという精神こそ、フィチーノに始まるルネサンス・ヘルメス主義の伝統に連なるものでした。以後、神と人間との関係は新しく革命的に定義づけられ、広範囲な影響力をもたらしましたが、ヘルメス文書は、単に神秘主義的な思想家たちにだけ読まれたわけではありませんでした。例えば、文書が魔術に基盤を置くにもかかわらず、正統的カトリックの王フェリーペ二世ですら、彼のエスコリアル王室修道院の書庫に、200冊にもなるヘルメス主義関係の著作を秘蔵していたといいます。 また、いわゆる「近代科学の起源」について議論される際にも、ヘルメス主義的な魔術思想の影響は、無視することができないものがあります。実際、コペルニクスの太陽中心説には、ヘルメス思想の太陽崇拝の影響があり、『天球の回転について』の序文には、ヘルメス・トリスメギストスへの言及がありますし、ケプラーは、ヘルメス文書に通じ、プラトン立体の組合わせからなる調和思想、ピュタゴラスの数秘学の影響が濃厚です。また、古来魔術的な作用とされてきた磁気を、惑星の霊魂と結びつけたギルバート、そして錬金術に耽り、万有引力の法則を打ち立てたニュートンなど、明白な事例が知られています。 現在では、近代科学の業績の一部が、魔術的ヘルメス思想に起源があるということは、多くの科学史家により認められていますが、この点に関連してある研究者は、次のようにさえ述べています。「ニュートンや彼の同時代人たちは、まったく別のタイプの科学革命を待望していたのである。・・・・・・この統合は、事実、かつてのプラトン主義、アリストテレス主義、新プラトン主義による統合によって得られた目ざましい成果に比肩しうる、新たなキリスト教の創造であった。18世紀に夢みられ、そして部分的には実現されたこの種の『知』は、『全体知』の獲得をめざしてヨーロッパのキリスト教が試みた、最後の企てを示すものである」。


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